電通社員の過労による自殺事件を通じて生きづらい世の中を改めて感じました
電通社員の過労により自殺した事件ですがかなりの波紋を広げています。
亡くなった彼女に対してさまざまな意見がありますが、彼女が亡くなる前にLINEやツイッターで送ったとされるメッセージには、今の私にも相通じるものがあり、なんともやりきれない気分になってしまいます。
以下ヤフーニュースにあった「電通「鬼十則」背景か 東大卒エリート美女、自殺までに綴った苦悶の叫び 産経新聞 10月15日(土)20時0分配信」に掲げられた記事の一部です。
「生きているために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなってからが人生」(11月3日)
「道歩いている時に死ぬのにてきしてそうな歩道橋を探しがちになっているのに気づいて今こういう形になってます…」(11月12日)
「死にたいと思いながらこんなストレスフルな毎日を乗り越えた先に何が残るんだろうか」(12月16日)
「なんらな死んだほうがよっぽど幸福なんじゃないかとさえ思って。死ぬ前に送る遺書メールのCC(あて先)に誰を入れるのがベストな布陣を考えてた」(12月17日)
このほかにもいろいろメッセージがあったとのことですが、特に自分にとって印象の強かった箇所を取り上げてみました。
私自身も仕事が本当に嫌になり、死ぬことについて脳裏にかすめた一時期が昨年ありました。
あまりにも仕事が自分に合わず、日々心が蝕まれ、身体のあちこちに異常が生じ、出勤することも嫌になるほどの状態となったときのことです。
そのころは朝早くから夜遅くまで仕事に拘束されており、「なぜ辛いにもかかわらずこのようなことをしないといけないのか」、「なぜ常にぎりぎりまで追い立てられないといけないのか」など疑問に思いながら仕事をしていました。
しかしその疑問も次第に大きく肥大化し、だんだん「なんのために生きているのか」、「このまま仕事で苦しみボロボロとなって朽ち果てるのか」などといったことを考えるようになりました。
もはや生きていくことが辛くなり、自分の人生について考えるようになっていたようです。
そして「死んだ方が楽なのかな」、「生きていても辛いだけ」といった「死」に対する感情が大きくなっていきました。
この時がまさしく私にとって心身ともにボロボロの状態だったことは間違いありません。
ただ電通の彼女と私とが違うのは、「どうせ死ぬなら自分のしたいことをやって死にたい」と思ったことです。
「こんな職場にムリして自分を捧げ、奉仕して死ぬのはイヤだ」
「どうせなら自由に生き、そしてしがらみなく最後は死にたい」
そういう感情がとても強くなったのです。
それからでしょうか。
リタイアについて本気で考え始めたのは。
私は電通の女性社員と同じような気持ちを仕事に対して抱きつつもまだかろうじて生きています。
ある程度仕事や社会の経験を積み知見が広がったことに加え、なんとかこれまでの投資や貯蓄によりある程度資産を積み上げてきたことが「逃げ」という選択の考えを生んだからなのだと思います。
亡くなった電通の彼女は優秀な新入社員ということでそういう「逃げ」という意識がまわらないうちに過酷な職場に苛まれ「将来への絶望」が大きくなってしまったのかもしれません。
これからの未来のある優秀な方がこんなことで命を落としてしまう社会は本当に嘆かわしいことですね。。。
本来こんなに社会が発展し、ITやらロボットやらが日々進化を遂げ、さまざまな知識・情報が多く積み上がっているわけだから、もっと人は楽に生きていけるはずなのです。
それにもかかわらずどんどん社会全体が息苦しくなっているのはなぜでしょう。
なんともいえない生きづらい社会という現実をこの事件を通じて改めて感じてしまいました。